アジア新風土記(2)ミャンマー政変


著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。









ミャンマーのヤンゴン川河畔の道を早朝、車を走らせたことがある。
夜が明けたばかりの道は朝霧に包まれていた。
田畑に向かう人たちと行き交う。水牛がところどころで草を食んでいる。
アジアの田舎を歩いているんだという思いが体にあふれてきて、
車から飛び出したい衝動にかられた。

朝霧が晴れるころヤンゴン市街地の対岸につき、そこからフェリーに乗った。
船内はヤンゴンの仕事場に向かう人たちであふれていた。
人々の表情は穏やかで、朝のフェリーでも香港のビクトリア港とは随分と
雰囲気が違っていた。
軍事政権の時代だった。民主社会への動きはまだ抑え込まれていた。


ヤンゴン南のデルタ地帯を船で下ったこともあった。
川の両岸はマングローブの茂みが続くところがあれば、途切れて開墾地に
なったところもあった。その茂みにしても船上から奥までは見渡せず、
岸を少し離れれば農地に代わってしまっていることを後で知る。
生活に困窮した北部の人たちが、たどり着いた先のマングローブ林を
次々と切り開いていったという。
緩衝地帯を失ったデルタはモンスーンの季節にはいとも容易く川を氾濫させる。

疲弊した大地と人々の貧しさを思った。

2011年、民政への移管が実現した。16年にはアウンサンスーチー氏を
領袖とする国民民主連盟(NLD)が政権を担う。
順調な経済発展が伝えられ、人々の生活も次第に豊かになっているという
話を聞くとき、ほんのつかの間の出会いだったフェリーの人たち、
デルタの人たちを思い出すことがあった。




クーデターは唐突だった。

2月1日、国軍のミンアウンフライン最高司令官が全権を掌握、
スーチー国家顧問、ウィンミン大統領らを拘束する。
アジアでクーデターのニュースを久しぶりに聞いた気がした。

国軍が20年秋の総選挙のNLD圧勝に危機感を持ったことが一因といわれる。
現行憲法は国会の4分の1議席を軍人枠としているが、過半数を制したNLDの
憲法改正への動きを危惧したという指摘だ。
連邦行政評議会を設置、総選挙の不正を訴えてやり直しを表明、
スーチー氏を収賄容疑などあらゆる手段で退ける意図を鮮明にする。
NLD解体も視野に入っているかもしれない。

学生、公務員、僧侶らにメディアも加わった抗議行動は1カ月以上続き、
死者は国連の3月15日の発表によれば138人に達した。
国軍はヤンゴンの一部地域に戒厳令を発令、デモへの圧迫をさらに強める。
国際社会の批判、制裁も事態の収拾には無力にみえた。



香港と同じではないかという思いは強い。
若者らは14年、香港特区行政長官の普通選挙実現を訴えてビジネス街の
一角を占拠する。
ミャンマーのようなデモ隊への発砲を躊躇わない制圧こそなかったが、
「雨傘革命」から「雨傘運動」への呼び方の変化さながらにトーンダウン、
なし崩し的に消されていった。自由、平等を保障する社会を目指す行動への
「弾圧」が繰り返されていく。



国軍とNLDの対立はすでに30年以上になる。
1988年の民主化運動は2年後の総選挙でのNLD圧勝につながるが、
国軍は政権移譲を拒否、軍政を続けた。
「国家の指導者」という自負はしかし、民主化が進むことで崩れつつあった。

NLDにも政権運営を75歳のスーチー氏一人に頼らざるを得ないという
問題がある。党内の活性化は進まず、彼女に代わるリーダーは見当たらない。
クーデターは、両者が将来への不安材料を抱える中での国軍による
「正面突破」ともいえた。武力行使の一刻も早い停止と、一日も早い
平和裏の終結を祈るほかない。


暴挙の陰で、クーデターはビルマ人同士の争いという冷めた見方が
あるのも否定できない。ミャンマーの本質的な問題をそこに垣間見る。

ミャンマーは多民族国家であり、政府公認の135民族で構成されている。
主要民族はビルマ、シャン、カレンなど8民族だ。人口は5500万人。
ビルマ人はその7割を占め、ほとんどが仏教徒だ。
シャン人、カレン人らは「少数民族」として周辺部に暮らす。
バングラデシュと国境を接するラカイン州にはイスラム教徒・ロヒンギャの
社会がある。


ビルマ人主導の「国家」はミャンマーという国をビルマ人国家と同一化させ、
ビルマ人以外の少数民族との対話を難しくさせる。
「ニューズウィーク日本版2月16日号」は「少数民族には、権力者がNLDでも
軍でも関係ない」というカレン人の話を報じる。
ビルマ人の排他的ナショナリズムはまた、宗教を異にするロヒンギャへの
迫害を正当化させた。


ビルマ人は8世紀から9世紀にかけて中国南部から国土の中央部を南北に
流れるエーヤワディー(イラワジ)川沿いに南下、先住のピュー人、
モン人らを駆逐していった。いくつもの王朝が興亡、英領植民地、
日本軍占領を経て1948年に独立を果たす。


スーチー氏の父アウンサン将軍は独立の前年、東部シャン州で少数民族代表と
会談、彼らの自治権を認めるパンロン協定を締結する。約束は果たされていない。
会談にはすべての民族代表が参加したわけではなく、少数民族の「総意」が
あったとはいえない。アウンサン将軍にしてもビルマ人を代表していたか
という問題もある。しかし、少数民族問題解決の糸口はまず自治を容認する
ことにあるのではないか。


ロヒンギャの問題は国籍に加えて「民族」なのかという難問も絡んで複雑だ。
「国民」を定義した国籍法は1982年に施行され、第1次英緬(ビルマ)戦争
前年の1823年を境としてそれ以前に住んでいた人に国籍を与え、以後の人た
ちと区別した。ロヒンギャは昔からの住人も含めガンジス川河口・ベンガル地
方からの「不法移民」とみなされた。多くのビルマ人はその不合理性に真摯に
向き合うことはなかった。




ミャンマーがこれからどのような時代を迎えるかはわからない。
自由で民主的な社会を取り戻しても、パンロン協定の履行と国籍法の改正が
ない限り、ミャンマーが「ビルマ人国家」から脱却することはできない。
そのときは来るのか。そしてビルマ人はそのような国の在り方を思い描くのだろうか。



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