アジア新風土記(76)ベトナム・ホイアン




著者紹介

津田 邦宏(つだ・くにひろ)

1946年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業。72年、朝日新聞社入社。香港支局長、アジア総局長(バンコク)を務める。著書に『観光コースでない香港・マカオ』『私の台湾見聞記』『沖縄処分―台湾引揚者の悲哀』(以上、高文研)『香港返還』(杉山書店)などがある。






ホイアンはベトナム中部、トゥボン川が南シナ海に注ぐ河口にできた町だ。
川底に土砂が溜まって浅い流れになったトゥボン川沿いに20年ほど前、
小さなレストランが並んでいた。

ベトナム産のワインを注文、少し甘いけだるいような味を楽しみながら、
川面を眺めたことがある。


17世紀にはこの町に日本人町があった。トゥボン川に流れ込む小川には
「日本橋(来遠橋)」という小さな橋が架かっている。


ホイアンの「日本橋」


橋脚が石組みの木造橋は幅約3メートル、長さ18メートル。
中国風の屋根瓦がついていて一見、日本で見馴れた橋とは趣が違っていた。
橋を渡りながら天井を見上げると富士山の絵が描かれた提灯が吊るされていた。


「日本橋」の提灯



日本人がつくったとされ、橋の周囲に日本人町が続いていた。
火災などで何回も焼失したといわれ、元々はどのような橋だったのか。
橋の上から街並みを見下ろしながら、往時を想像してみた。





ホイアンの旧市街は黄色の外壁の通りが続く。
日本人町をいまに伝えるものは他にはなかった。
20世紀末に古伊万里系とみられる大量の陶磁器が発見されている。
日本人が暮らしていたことの一つの証になるのかどうか。


ホイアンの旧市街


当時の様子はオランダ東インド会社のオランダ人が書き留めている。

1651年に寄港したときに記したもので、歴史学者岩生成一の『南洋日本町の研究』(岩波書店、1966年)によると、60軒余りの日本人の家があり、
その他は中国人の商人、職人がいて、ベトナム人は非常に少なかった。

治外法権的な戦前の上海の「租界」のような町だったのではないか。
岩生は1家族3人としても200人内外の日本人が在住していたとみる。
「鎖国前(徳川幕府による最初の鎖国令は1633年=筆者注)日本町極盛時の繁栄と在留同胞数のなお多数なるべきことは容易に推察できる」とも書いている。


日本人の海外進出は13世紀からの倭寇に始まり、1604年に朱印状を携える朱印船制度が確立して最盛期を迎える。

ホイアンだけでなく、東南アジアのマニラ、カンボジア、シャム(タイ)などにはいくつもの日本人町が生まれた。


海外に飛び出していった人たちの多くは商いを生業とした人たちだったが、
1612年のキリスト教禁止令によって追われた信者も多かった。


ホイアンにいたルイジ・ガスパロというポルトガル人宣教師の布教報告には

「日本人等は、母国においては迫害のために全く不可能なりし事を、当地では悉く行うことができて、・・・交趾(こうち、ベトナム北部の古称=筆者注)支那人の驚異の面前で、復活祭が、多大なる喜悦の情と唱歌や音楽を以て祝福されたので、土着民にわれらの聖なる信仰を受け容れる高尚なる気持を吹き込んだ」


とある。(『南洋日本町の研究』)


天正遣欧少年使節が立ち寄ったマカオにも多くの信者が宣教師らと共に逃れている。

聖パウロ天主堂跡のファサード(正面外壁)に残るアヤメとキクの帯状装飾は、
日本人信者が制作に携わったといわれている。

キリシタン禁止令と鎖国令によって海外への道が閉ざされた日本人が再び外国に目を向けたときは、明治時代から敗戦にいたる国家としての「侵略」の時代だった。

二つの禁令がなかったならば、日本とアジアの関係はどのようなものになったのだろうか。
交易を主体にしたグローバルな交流の歴史が刻まれていったのか。
あるいは侵略がもっと早く始まったのか。
日本が欧米列強の影響をより早く強く受けていた可能性もあっただろう。


ホイアンは2世紀から17世紀ごろにかけて栄えたチャンパ王国の外港として、陶磁器、肉桂(桂皮、シナモン)、象牙などの取引を一手に担っていた。

王国はインド、アラビアと中国、琉球王国を結ぶ海の交易路の要衝にあり、中継ぎ貿易地として繁栄する。

日本人町があったころは朱印船も度々ホイアンに錨を下し、伽羅の別名でも知られる香木の沈香などを日本に持ち込んだ。


チャム人は現在のベトナム人とは異なり、オーストロネシア語族(マレー系)に属する。

王国の滅亡後、民族もまた勢いを失い、ベトナムの山岳地帯に少数民族として生き残るだけだ。

ベトナムの地に来る前は中国・漢時代の南に本拠を構えていたと言われるが、元々はどこから来たのだろうか。



ホイアンから西南40キロにあるミーソン遺跡は、チャンパ王国の歴代王が造営した聖地の一つだ。

王国は3世紀ごろからインド化が進み、遺跡にはシバ神を祀る70余の塔堂が林立している。


ミーソン遺跡


赤い焼成レンガ造りの遺跡群は草の中に立っていた。
塔堂の一つ一つを見て回る。
屋根まで草が伸びている祠堂があった。
レンガが崩れかけた祠堂もあった。
祈りを捧げている女性の像があった。リンガがあった。

五体の一部を失った立像は略奪されたのか、あるいはベトナム戦争で被害を受けたのか。

どの塔堂も神像も茫漠とした風景になお、荘厳な姿をいまに遺していた。



ミーソン遺跡の塔堂


神像


神像




アジアに一時期、確かに存在していたにもかかわらず、すでにその痕跡さえも定かではなくなった民族、都邑(とゆう)がどれほどあるのかと思う。

チャンパは栄華を極めた地に遺跡群として残っただけでも幸せな王国なのかもしれない。




早朝のホイアンの市場


ホイアンの早朝、港近くの市場は活気があった。
この朝に獲れた新鮮な魚が並べられていた。
カツオ以外は見たこともない地魚ばかりだ。

いくつもの笊(ざる)に分けられた野菜も名前を知らないものが多く、
緑の濃さが土地の豊かさを保証しているようだった。

売り子も買い手も活気を呼び込むのは女性たちだ。



ホイアンの市場


市場ではフランスパンが朝食だ。
一個1000ドンは日本円で50円もしなかった。

コッペパンより少し大きなパンの真ん中に切り口をつくり、
豚肉あるいは磨り潰した魚に香菜を詰め込み、魚醬をかけると倍の値になる。
ホテルには朝食が用意されていたが、女将の笑顔に負ける。
口頬張って食べ終わるころにはホテルのことなどすっかり忘れていた。


トゥボン川の対岸からは小舟がこちらに向かってくる。
舟の上は仕事先に急ぐ人たちでいっぱいだった。
朝靄のなかに河口から先の海が微かに見えた。


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