(46)【検証「沖縄人スパイ説」】=7回連載の第2回

日本軍による住民虐殺事件の実例


今回は原剛論文が日本軍による住民虐殺事件について、「思慮を欠いた過剰な防諜意識がもたらしたスパイ容疑による殺害事件」などと、軽く片づけた問題を掘りさげてみたい。

【01】久米島・鹿山[かやま]隊による連続住民虐殺事件。久米島に駐屯する海軍通信隊(隊長・鹿山正兵曹長)34人が山中の陣地壕に立てこもっていたが、「飛行機などから撒かれた宣伝ビラを拾得し私有する者は敵側スパイとみなして銃殺する」などと通達をだし、言動が怪しいとにらまれた要注意人物数十名のブラックリストをもとに、朝鮮出身者家族8人を軍刀で斬首するなど、20名の島民が次つぎと処刑(虐殺)された。(写真②参照)


 

久米島住民虐殺事件記念碑「痛恨之碑」


 
 
 
 
 
 
【02】渡嘉敷島の住人で、15、6歳の少年2人が米軍に捕らえられた後、降伏勧告を伝えるために赤松隊陣地へ送られた。赤松隊に送られた少年たちは米軍と通じたという理由でただちに処刑された。

 


【03】渡嘉敷島の新垣重吉、古波蔵和雄、与那嶺徳、大城ウシの4人は、上陸してきた米軍に強制されて投降勧告ビラを日本軍駐屯部隊(赤松隊)に持って行かされた。新垣、古波蔵の2人は途中で逃げて来たが、残り2人はビラを届けに指揮所へ到着したところ米軍側スパイとみなされて斬殺された。


【04】座間味[ざまみ]島で捕虜第一号となった後藤松雄は、米軍から支給された食糧品を住民へ分け与えたところ夫婦同伴で日本軍本部に呼び出されて2人とも殺害された。


【05】座間味島の仲地夫妻は妻の足が悪かったため指定された山中の避難場所に登れず、上陸してきた米軍の捕虜となり、数カ月米軍の保護下におかれていたところ、日本兵にみつかり「スパイ」の理由で殺害された。


【06】伊江[いえ]島住民が渡嘉敷[とかしき]島の捕虜収容所へ連行された後、米軍に伊江島の若い女性5名と男性1名が選ばれて降伏勧告状を赤松隊へもっていかされることなる。その男女6名は赤松隊により殺害されて戻ってこなかった。


【07】伊江島で捕虜となった島の住民数名が日本軍がたてこもるチネア壕へ衣類を取りに行ったところ、敵のスパイとみなされて即座に全員殺害された。


【08】伊是名[いぜな]島には本部半島の国頭[くにがみ]支隊から逃げてきた敗残兵十数人がたてこもっていたが、奄美大島出身の漁師奉公人として連れてこられた3人の少年がスパイ行為をする恐れがあるとして殺害された。伊是名島では、敗残兵グループによる米兵捕虜殺害事件も3件起きた。


【09】伊平屋[いへや]島の喜名政昭は6月25日、日本軍が敗れたことを周辺に知らせたため、米軍のスパイとの噂がひろがり、伊是名島の敗残兵たちに呼び寄せられて殺害された。


【10】渡野喜屋[とのきや]避難民虐殺事件。1945年5月、大宜味村[おおぎみそん]渡野喜屋には中南部から避難してきた約90人の一般住民が米軍に保護されて一時収容されていたが、ある夜、山中に立てこもっていた日本兵約10名が集落におりてきて、避難民の中から男たち数名を山中に連行して軍刀で惨殺、残りの老幼婦女子4、50人は塩屋湾の浜辺に集められて、隊長(軍曹)が「きさまら夫や息子に恥ずかしいと思わんか」などと訓示したあと、隊長の号令で、避難民を取り囲んでいた約10名の兵隊たちが一斉に手榴弾を投げつけてきた。

猛烈な炸裂音のあとに数十名の死体の山ができた。夜が明けて負傷した人たちが水を飲みに元の空家に戻ってみると、兵隊たちが避難民の荷物から米軍配給の食料品をぜんぶ抜き取って山中に去ったあとだった。

 

【11】大宜味村喜如嘉[きじょか]で戦時対策委員の男性が避難住民への情報提供のために避難小屋を駆けまわっていたところ日本兵に捕まってスパイ活動の容疑で殺害された。


【12】終戦直後、国頭村の住民4人が田井等[たいら]収容所から帰る途中、大宜味村喜如嘉で敗残兵グループに襲われて4人が殺害された。


【13】羽地[はねじ]村与那で米軍の捕虜になった避難民たちは、友軍の敗残兵たちが出没するということで当原に移されたが、一週間後、日本兵の手にかかって高嶺一家は惨殺された。


【14】米軍に任命された国頭・漢那の村長は日本軍の敗残兵からスパイとみなされて殺害された。


【15】本部[もとぶ]国民学校の照屋校長は兄弟たちの行方をさがして山中を歩きまわっていたが、耳が遠いので敵機の来襲もかまわず日本軍陣地の周辺を歩き続けていたので敵機を誘導したスパイの疑いで、弁明の機会も与えられず日本兵にその場で斬殺された。


【16】本部半島伊豆味に避難していた太田守徳は、深夜に日本兵に呼び出されて惨殺された。日本軍陣地に食糧などを納めていたので陣地の秘匿が理由だろうと言われている。


【17】斎場御嶽[セーファウタキ]近くの壕でランプをともしていた住民が、中城[なかぐすく]湾の米軍と連絡をとっているときめつけられて斬殺された。


【18】豊見城村[とみぐすくそん]出身の渡嘉敷国民学校訓導・大城徳安は、妊娠した妻が心配で、時々妻のもとに帰っていた。そのことにより、脱走の罪を着せられて斬首された。


【19】知念[ちねん]村で45年3月中旬、与那城伊清はある会合の席上、「友軍の高射砲の命中率が悪いのは一体どうした訳か」と質問したために、後で「スパイの疑いあり」として殺害された。


【20】知念村において3月中旬、村会議員大城重政は部隊の兵隊が無断で村民の家畜を運び去るのを抗議したため「スパイの疑いあり」として殺害された。


【21】具志頭[ぐしちゃん]村新城で、南部へ避難する途中の桑江という民間人が「スパイ」容疑で日本刀で斬殺された。


【22】十・十空襲のあと、佐敷[さしき]において地図をもって兵隊はどこにいるかなどと聞く人がいたが、それを区長に話したら、その人は軍に連行されて殺された。


【23】米軍上陸前、首里城の広場で首里の人が南方帰りということでスパイ視されて殺害された。


【24】精神異常者が「日本は負けた」と叫んで街を歩いていたので、「スパイ」として首をはねられた。

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