(47)【検証「沖縄人スパイ説」】7回連載の第3回

「沖縄人スパイ説」の現場

  この検証シリーズの冒頭で紹介した原剛[はら・たけし]論文は、沖縄人スパイ説の論拠として、『北海タイムス』の1965年の連載記事「七師団戦記/「ああ沖縄」/戦没一万八十五柱の霊にささぐ」などの記事を参照したと思われるが、「ああ沖縄」(100)では、次のように書かれている。 

「栗山○○兵長はある夜、岩陰にかくれ沖の米艦船に懐中電灯で信号を送っている男をみつけた。さっそく河部真男伍長(○○町出身)と渡辺○○上等兵(○○市出身)に連絡をとり、3人でその男を取り押えた。

沖縄出身でハワイ生まれ、40歳、3月10日潜水艦できて、湊川に上陸したという。左手のクスリ指のあいだにUSAT6とイレズミがしてあった。

その後、小型無線機で通信を送っていた19歳の女性をつかまた。同じように、左手のクスリ指にUSA013とイレズミをしていた。ハワイ生まれで、サイパン、レイテでスパイ活動をし、沖縄に来たという。

(その後)2人とも銃殺された、という話を聞いた......」

 

『北海タイムス』「ああ沖縄」連載記事

 

 

 

北海道部隊は、沖縄守備軍の中では戦没将兵1万余柱という桁違いの犠牲者をだした部隊だけに、同紙の連載記事に描かれた生々しい沖縄戦の実相については読者の関心も高かったと思われるが、前出引用の記事を注意深く読めば、冒頭の懐中電灯をもった「USAT6」のエピソードはかりに真実だとしても、「その後、......」以降の「女スパイ」の話などの多くは、確かな裏づけのない風評にすぎないということを沖縄戦史にたずさわる者は心得ておかねばならない。


原論文では「このような事実があったにもかかわらず、この事実にふれた書は見あたらない」と鬼の首でもとったように、名指しされた前記数名(連載1回参照)の怠慢を間接的に指摘しているが、これまた片腹痛い話である。


『北海タイムス』が戦場秘話として報じた「体験談」なるものは、子どものころからあきるほど聞かされた「戦場秘話」などと銘うった「女スパイシリーズ」の断片にすぎない。


論より証拠、断末魔の島尻戦線で〝鉄の暴風〟が吹きすさぶなかを、避難民の誘導保護で駆け回っていた元県庁職員の手記から、「女スパイ説」の真偽を検証してみよう。


浦崎純氏は当時県の特別援護室長などを務め、戦場では沖縄県後方指導挺身隊の隊員として最後まで島田知事と行動をともにした〝地獄の戦場〟の生き証人であった。以下に同氏の手記『沖縄の玉砕・沖縄群島玉砕戦の真相』(日本文華社 1972年)から、断末魔の戦場の実相を引用させていただく。


「身をかくす場所をもたないわれわれ県庁職員は、そこで部隊長らしき将校に出会い、頼んで同居の許しをえた。(略)私たちが洞窟へ降りるところへ、先ほどの部隊長が現れた。県庁側も軍に協力してくれというのである。なにごとかと聞くと、彼は罫紙に、赤鉛筆で書いた書面を見せた。それには次のような意味のことが書かれていた。

......この付近にスパイが潜入している。沖縄出身の妙齢の婦人で、人数は4、50名と推定される。彼らは赤いハンカチと小型の手鏡をもっていて、陰毛をそり落としているのが特徴である。

部隊長はまじめな顔でその書面を私たちに見せると、スパイ逮捕にぜひ協力してくれというのである。

気が狂っているのではないかと思って、相手にならずにいると、態度は真剣である。しかも哀願の表情さえ浮かべているではないか。馬鹿馬鹿しいので、取り合わずに立ち去ろうとすると、彼の表情が俄然けわしい表情に変わった。気味悪くなった私たちは、無言のまま互いに顔を見合わせると、そうそう退却した。

洞窟を飛び出したものの、彼のけわしい表情と、赤鉛筆の書面......、赤いハンカチと小型の手鏡、それに陰毛をそり落としている......云々が頭にこびりついて離れない。

こんな愚にもつかない書面を、部隊長は重要部隊情報だと、くり返し説明していたが、どう考えても正気の沙汰ではない。

このような情報を本気で出した部隊本部や、また、これを受けて立っている第一線部隊がこの沖縄に実在しているとすれば、もはや沖縄作戦は正気で戦われているとは判断しえない段階にきているとしか思えないのであった」

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