(49)【検証「沖縄人スパイ説」】7回連載の第5回

沖縄県民カク戦ヘリ


 
1945年4月1日、米軍は総勢15万5000人の戦闘部隊を投入して沖縄本島に上陸作戦を開始した。

 

対する沖縄守備軍(第32軍)は防衛隊・義勇隊など合わせてもわずか約12万人の劣勢、沖縄守備軍は初めか米軍の本土進攻を遅らせるための「時間稼ぎの捨て石作戦」、つまり「玉砕」すべき運命に立たされていたのだ。
 


守備軍の敗色が濃厚となるにつれて本土では、前記のような「沖縄人総スパイ説」が流されていた。

この状況を憂えた島田知事と荒井警察部長は戦場の県民の実情を日本政府に正確に伝えるために、特別行動隊8名を編成して本土への密使として派遣した。

「鉄の暴風」が吹きまくるさなか、小舟に乗って島伝いに本土へ向かう決死隊が、はたして米軍の包囲網をくぐりぬけて目的地へたどりつくことが出来るか、確率はきわめてきびしかった。
 


この状況下で独自の通信手段で島田知事の意向をサポートしたのが、次に述べる海軍部隊から発信された「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文だったと思われたが、沖縄県が派遣した特別行動隊のほうは、8名の隊員のうち本土へたどりついたのは1名だけ、福岡の沖縄県連絡事務所を経て、内務省に県知事の報告書を提出したのは、太平洋戦争が終わって1年もたった1946年夏のことだった。
 


時期はずれの報告書になったが、しかし内容は沖縄県民の名誉にかかわる重要なものだった。

島田知事の報告書で最も強調しているのは「沖縄県民のスパイ行為があったために戦争に負けた」という流言を打ち消すことにあった(荒井紀雄『戦さ世の県庁』参照)。
 


特別行動隊の派遣とは別に、島田知事は5月25日に海軍壕の電信機を借りて「県知事より内務大臣宛」の電文を発信、「県民の戦意は旺盛なので治安上の懸念はないが、食糧は逐次逼迫しており、6月上旬以降は窮乏のため一部の飢餓が憂慮される」という切羽つまった内容だった。

「治安上の懸念はない」云々は、本土で流布している「沖縄人スパイ説」を打ち消す意図がうかがえる。
 


ここで「沖縄人スパイ説」を打ち消すために陰ながら尽力したもうひとりの人物が浮上してくる。

海軍部隊の大田實司令官と島田知事とは、沖縄への赴任が昭和20年1月で同期という因縁もあって、日ごろから親密に情報交換をする間柄だった。

島田知事も十・十空襲で県庁の電信機が使用不能になったあとは、海軍壕の電信機を使用させてもらっていた。

沖縄人スパイ説の流言を打ち消すために決死隊を本土へ派遣する計画や、内務大臣あての報告書の内容などもあらまし聞いていたのであろう。

大田司令官がかの有名な電文を発信することにした主な動機は、「沖縄人スパイ説」に悩まされる島田知事の苦衷を察してのことだろうと推測されるのである。
 


ちなみに、第32軍とは独立して小禄[おろく]海軍飛行場の地下壕に本部をおく海軍部隊(沖縄方面根拠地隊)は、総員約1万人のうち3~4000人は沖縄現地での防衛召集者であった。


なかには沖縄人どうし方言で話す隊員もいたというが、海軍部隊の内部で「沖縄人スパイ」が摘発されたという話は聞いたことがない。むしろ部下に沖縄出身者が多い事情から、大田司令官としては島田知事に対しても一般県民に対しても同情の念が強かっただろうと察せられる。
 


大田司令官は、米軍が小禄海軍壕に迫ってきた6月13日に部隊指揮所で自決を遂げるが、その1週間前の6月6日に、有名な「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文を本土へむけて発信している。
 

約800字におよぶ長い電文には「鉄の暴風」へまきこまれた県民への同情とともに、暗に「沖縄人総スパイ説」の汚名を打ち消す意図もあったことが察せられる。
 


論より証拠、電文は6月15日付で全国紙に掲載されたが、記事の前文には次のような解説がついているのだ。

「われわれは今日まで沖縄県民は米軍上陸とともに驕敵の軍門に降りあるひはその行動は皇軍に対し非協力的な態度をとった等々の多くの説を耳にした。

しかし、これらの説はこの指揮官の報告により根拠なき浮説であることが明らかにされ、同県民は一人の例外もなく醜敵に立ち向ひ、あるいは皇軍全般作戦に協力しつつあるのである」
 


私がこの記事に注目するのは、「沖縄県民の忠誠心・愛国心を認めてくれた」ことを喜ぶからではない。むしろ逆で、それまでは全国の多くの新聞読者が「沖縄人スパイ説」を鵜呑みにしていたであろうという恐ろしさである。

このころ一般国民の心に植え付けられた「沖縄人」に対する不信感や嫌悪感や憎悪は、その後はたして完全に清算されただろうか、あるいは......と考えると、末恐ろしくなってくる。

 

それだけに大田司令官が全国民宛に発したこの電文が、千金の重みをもって心に残るのである。

旧海軍司令部壕の案内リーフレット


 

 


 

「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、三二軍司令部もまた通信の余力なしと認めらるるにつき、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申上ぐ。

沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆んど顧みるにいとまなかりき。

然れども、本職の知れる範囲においては、県民は、青壮年の全部を防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲撃下をさまよい、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。

しかも若き婦人は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申し出る者あり。
 

所詮、敵来たりなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供さらるべしとて、親子生別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、見寄りなき重傷者を助けて共にさまよう。

真面目にして一時の感情にはせられたるとは思われず。さらに、軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中にはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、御奉公の一念を胸に抱きつつ遂に...(不明)...報われることなくして、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。

一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支えるのみとなりと謂ふ。

沖縄県民かく戦へり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」


 

小禄海軍壕の壕内写真

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