| 閉ざされた国 ビルマ【立ち読みコーナー】 | |||||
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著者 宇田有三(うだ・ゆうぞう) 1963年神戸生まれ。フリーランス・フォトジャーナリスト。90年教員を経て渡米。ボストンにて写真を学んだ後、中米の紛争地エルサルバドルの取材を皮切りに取材活動を開始。軍事政権・先住民族・世界の貧困などを重点取材。95年神戸大学大学院国際協力研究科で国際法を学ぶ。「平和・共同ジャーナリスト基金奨励賞」「黒田清JCJ新人賞」他。写真集に『ビルマ軍事政権下に生きる人びと』(企画・編集:財団法人アジア・太平洋人権情報センター 、発売:解放出版社)。 HP:http://www.uzo.net/ メール:info@uzo.net ■はじめに──エルサルバドルからビルマへ 私は一九九三年から二〇〇九年までの一七年間、ひきもきらずビルマに通っている。これまでビルマとタイとの国境には一七回、ビルマ国内には一二回訪れ、現地で暮らした期間を延べにするとざっと四年になる。特に二〇〇一年以降の二年間は日本に戻ることなく、できるだけ最大都市ヤンゴンを中心に、ビルマ国内にとどまり取材活動を続けてきた。 話はさかのぼるが、私とビルマとの関わりは、南北アメリカ大陸の間に位置する中米諸国の紛争取材が発端であった。というのも、私のフォトジャーナリストとしての出発点は、その中米最小の国エルサルバドルだったからである。 中米地域における「東西冷戦」の終末期の一九九〇年代初め、エルサルバドルやグアテマラの軍事政権の抑圧から、多くの人びとが米国に政治・経済難民として逃げ込んでいた。当時、米国ボストンの写真専門学校で学んでいた私は、エルサルバドルからの難民に出会ったり、彼らの国の人権侵害を告発するデモをボストンで目の当たりにしていた。抗議のプラカードを持ってデモ行進する人びとの写真を撮る機会が増えるにつれて、私の中米に関する知識は徐々に深まっていった。それまで遠かった国エルサルバドルの存在が、急速に身近になっていった。 エルサルバドルに関する、私の限られた知識は、米国人オリバー・ストーン監督の映画『サルバドル』であり、その頃日本で活躍していたフォトジャーナリスト長倉洋海氏の『内戦 エルサルバドルの民衆』(晩聲社)であった。エルサルバドルの内戦とは、米国が公に軍事支援していたエルサルバドル軍政の人権侵害と、秘密警察が市民を恐怖のどん底に突き落としていた社会での出来事だった。 「学生のデモに対して国家治安隊の歩兵第一分隊が全てを任されていた。学生が行進していくと、装甲車が第一ブロックの高校生集団と正面から衝突し、彼らの多くをひき殺した」 「アトルカトル歩兵大隊は、二〇〇人以上の女性、子供、老人を暗殺した。なんという悲しみか、どうしてこんな流血が起こるのか」 「単なる民主化を求めた人達を共産主義者というレッテルをかぶせ資本主義を維持するという大義名分の元に国民を暗殺・逮捕・誘拐・行方不明にし、この内戦をさらに激化させた。暗殺や武器を持たない住民の虐殺はベトナムのソンミ事件の数百倍と言えよう」(以上、ニディア・ディアス著/櫻井マリア・エレナ、櫻井隆志訳『指揮官ニディア・ディアス』〈つげ書房新社〉から引用) このような事態は、支援元の米国の大使でさえエルサルバドル軍のトップの性格を「人殺しの病理学者」と呼ぶほどであった。まさに殺人狂≠フ権力者の支配によって、約五〇〇万人の人口のうち一割の五〇万人が国外に逃れた。エルサルバドルで停戦直前、滞在中の米国でエルサルバドルの人びとの反政府デモに関わり、中米の軍事政権の非道さを知るにつれ、私は他の人が発表していないエルサルバドル像を伝えるのが、自分の最初の取材なんだと思うようになっていった。 ちなみに、中米エルサルバドルと日本とは地球のちょうど反対側に位置する国で、両国にはそれほど共通点がないように思える。だが、歴史をちょっと振り返ると、この二つの国には意外な接点があることがわかる。日本は一九三二年、武力で制圧した中国東北地方に傀儡国家「満州国」をつくった。その「満州国」を他国に先駆けて最初に承認したのがこのエルサルバドルなのである。両国とも軍部が国を支配している国であった。 米国とソ連(当時)による「東西冷戦」の代理戦争の舞台となっていたエルサルバドルは一九九二年、紆余曲折を経てなんとか停戦までこぎつけた。二十余年続いたその内戦が終わることになり、エルサルバドルの首都サンサルバドルでは内戦終結を祝う大イベントが迫っていた。 九二年一月の半ば、私は米国を発ちグアテマラに入り、そこで二週間、付け焼き刃のスペイン語を習得する。その後、ぎりぎり二月一日の停戦の大イベントに間に合うようにエルサルバドル入りした。幸運にも首都サンサルバドルでは、偶然知り合った米国の医師団の手助けで、内戦の一方の当事者であるゲリラのキャンプに連れて行ってもらったり、エルサルバドル人の人権活動家を紹介してもらうなどして、フリーランスのフォトジャーナリストとしての一歩を踏み出した。 一九九二年の五月初め、エルサルバドルで三カ月の取材を終えて米国に戻ると、周りの人からよく尋ねられた。 「コソボには行かないのか? セルビアには行かないのか? ルワンダは?」 と。確かに人間性が最も露わになるであろう戦争の最前線取材には私も興味があった。だが、その頃、私は漠然と、宗教紛争や民族紛争には手を出せないだろうと思っていた。つまりそれらの紛争には、どちらの側にも「正義」があるだろうし、そのような正義と正義のぶつかり合いに、外部の者はどういう立場と視点で取材をしたらいいのかが疑問だったからだ。 翌年の九三年、米国から日本に引き揚げることになった。約二年間の米国滞在とエルサルバドル訪問で、私は取材者として写真撮影以上に多くのことを学ぶ機会を得た。それは、中米やアジアではまだ冷戦が続いており、果たして世界はこれからどこへ向かうのか。現場主義だけでは捉えることのできない大きな視点を持つことが大事なのだと思い至ったことである。現場の撮影に力を置くのはもちろんのことだが、それでも目の前の現象や現実だけに振り回されるだけのフォトジャーナリストは、私の目指す道ではなかった。鳥の目を持って空の上から地球を俯瞰し、蟻の歩みでもって地上を這い、人びとの暮らしを肌で感じる。そういう感覚で問題に取り組みたかった。 日本に戻ってひと息つき、アルバイトをしながら、次の取材のために貯金を始めていた。次は、アジアの国を取材したいと思っていた。その頃まだ私の身体の中には、エルサルバドルの、軍事政権下に暮らしていた人びとの息づかいとその記憶が、仄かに残っていた。──二四時間、軍の暴力やその恐怖の下で生活するのはどういうことだろう。軍政下で、時には政府に対して拳を上げて弾圧され、それでもしたたかに暮らす人びとを記録していくのもやりがいがあるかもしれない。アジアではその当時、軍部や強権政府が権勢をふるっていたインドネシア、フィリピン、マレーシアなどを次の取材地の候補として考えていた。 そんな時、ある新聞記事を見つけた。ビルマ東部の山中で、タイ国境付近を中心に、カレンという民族集団がビルマ軍事政権に対して武装抵抗を続けているという内容だった。その抵抗闘争は、世界で最も古い内戦であると初めて知った。その当時、私がビルマについて知っていることといえば、それこそ第二次世界大戦後日本で出版され、映画化もされた小説『ビルマの竪琴』(竹山道夫著)ぐらいであった。ビルマ軍事政権のことやアウンサンスーチーのこと、民主化デモのことなどほとんど知らないままであった。 そのカレン民族の抵抗闘争を調べるにつれ、私の直感が、ここが次の取材地だと告げた。 〈厳しい軍事政権の下、あるいは自然条件の厳しいジャングルの中で、彼らは何を求めて戦い続けているのか。それを、まず自分の肌で知りたい〉 一九九三年五月半ば、東南アジアではモンスーン気候の雨季が始まる直前、私はタイ国境が近いビルマ・カレン州に向かった。 ※文中一部敬称略
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