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高文研 top 38度線 非武装地帯をあるく 【立ち読みコーナー】
 著者 
小田川 興(おだがわ こう)
1942年、北海道生まれ。朝日新聞ソウル支局長、編集委員を経て現在、早稲田大学・聖学院大学客員教授、姫路獨協大学特別教授。朝鮮半島事情、東アジア平和論。著書『被爆韓国人』(編訳、朝日新聞社)、『朝鮮半島・平和の構図』(朝日新聞調査研究室)『北朝鮮──その実像と軌跡』(高文研)『日朝交渉──課題と展望』(岩波書店、以上共著)。日本記者クラブ会員。


はじめに



 ──非戦平和への旅として


 私は二〇〇一年三月、朝日新聞社の定年(〇二年一月)を控えて日曜版「旅する記者」の企画で朝鮮半島非武装地帯を取材しました。朝鮮戦争の激戦地・鉄原、韓国最北端の日本海(東海)岸にある高城、 南北の接点・板門店、強国襲来の歴史の現場・江華島と非武装地帯に沿って車で走破しました。(〇一年四月八日付「鳥の楽園──休戦ラインに沿って」=次ページ写真)
 新聞社を離れて、この取材で書ききれなかった「思い」をより多くの人たちに知ってもらいたいと、また非武装地帯の旅に出ました。その思いの底には、朝鮮半島で出会ったある強烈な光景がありました。
 朝日新聞の朝鮮問題担当記者だった私は一九八五年夏、総評を中心とする「朝鮮の自主的平和統一を支持する日本委員会」の訪朝団に同行取材するため、初めて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都平壌を訪れました。朝鮮対外文化連絡協会(対文協)が定めたスケジュールに従う毎日、なんとか「普通の市民」の息づかいに触れたいと思っていました。
 その日、NHK北京支局のT記者とともに宿所の普通江ホテル前の公園をのぞきました。T記者は「街の表情を撮りたい」と大型のテレビカメラを担いでいました。
 ホテル玄関から二〇〇メートルほどの所に、やや大きな池がありました。池のほとりで一〇人ほどの人民学校(小学校)の子供たちがトンボ釣りに興じていました。長い糸の先に雌のトンボを結びつけて雄を誘って捕らえる、昔は日本の子供たちもさかんにやっていましたが、今は見かけなくなった懐かしい遊びです。T記者はさっそくカメラを肩に担いで子供たちのほうに黒いズームレンズを向けたままゆっくりと歩き出しました。
 数歩進んだところで、高学年の子が気づいて不審気な表情を浮かべました。仲間もこちらを振り向く。──と、突然、子らの顔に恐怖の色が走ったのです。次の瞬間、一人残らず蜘蛛の子を散らすように走り出しました。背をまるめて私たちの数メートル先を走りぬけた一人は、池の周囲を囲っていた高さ一メートル余りのコンクリート堤から下に飛び降りました。その下は水が涸れて土が露出し、半円形の砂州のようになっていたのです。その上を走って、砂州が切れたところで子供は一気に堤を越えようとしました。しかし高すぎて越えられません。観念したのか、子供はコンクリート堤に両手を広げて張りつきました。顔だけ斜め後ろに向け、目はテレビカメラを凝視しています。
 T記者がカメラを下ろすと、子供はすばやく池から這い上がり逃げ去りました。あっという間の出来事でした。
 「なぜだろう」──。やがて二人で探り当てた結論は「テレビカメラのズームレンズが銃口に見えたのではないか」ということでした。子供たちの思いがけない行動を説明できる理由は、ほかに考えられなかったのです。
 この衝撃から、私は二つのことを考えさせられました。
 まず、朝鮮半島の北と南の文化格差です。当時、ソウル・アジア大会を翌年に控えた韓国だと、こんなことは起こりえなかったはずです。韓国の子供たちはとっくにテレビ文化にどっぷり浸かり、よもやテレビカメラを銃と見間違うことはなかったでしょう。子供の世界に「格差」をもたらしたもの──それは突き詰めると南北の体制の違いであり、さらに遡ると三八度線で対峙する南北の分断状況に他ならないのです。
 もうひとつ、平壌の子供たちの恐怖におびえた瞳は、長い間私の意識の底に眠っていた防空壕体験の暗い記憶を呼び覚ましました。太平洋戦争末期に青森県下の祖父の家に疎開し、米軍の重爆撃機B29の空爆を恐れて防空壕にもぐった三歳の私は、狭くて蒸し暑い闇の中で死の恐怖におびえ、震えていました。縁先のラジオから「敵機来襲、敵機来襲」と告げるアナウンサーの甲高い叫びがいまも耳底にこびりついています。その記憶が、北朝鮮の子供たちの恐怖の表情によって呼び覚まされたのです。(まだ幼かったが、私と同年で防空壕体験を憶えている者は少なくありません。それは、忘れられない共通の記憶です。)
 こうして私にとっては、敗戦直前の日本と戦後四〇年の北朝鮮での二つの体験が結びつき、それが朝鮮半島の平和を考える原点≠ニなりました。

 一九六八年、在韓被爆者問題でスタートした私の朝鮮半島取材は今年で満四〇年になります。冷戦真っただ中の七〇年代にソウルに留学した当時、韓国の学校では「北の人間にはツノが生えている」と教えていました。それが八八年ソウル五輪を経て、八九年の冷戦終焉とともに三八度線の緊張が緩み始めるなか、南北対話は軌道に乗り、九一年には南北和解のための「基本合意書」が成立しました。
 しかし、国際政治と南北関係がからみ合う朝鮮半島では、複雑にもつれた緊張の糸をほぐして冷戦構造から脱皮するのは容易ではありません。
 とくに北朝鮮の核問題は象徴的です。二〇〇一年の九・一一同時多発テロを契機にテロ組織による核の威嚇が国際社会で強く懸念されるようになり、北朝鮮に対して厳しい目が向けられています。南北朝鮮と日米中ロの六者協議は、〇六年一〇月の北朝鮮の核実験強行を受けて、〇七年には北朝鮮の核放棄に向けた具体的な道筋を描く合意を実現しました。だが、問題解決の道は険しく、まだ曲折をたどることでしょう。
 朝鮮半島非核化の努力が水泡に帰した場合、再び緊張が高まり、戦争の危険をはらむ日が来ないという保証はありません。
 万一、「朝鮮有事」が発生した場合、日本が平和憲法をかなぐり捨てて、米国との共同軍事行動に踏み切る可能性さえ考えられます。この間、すでに日本政府は「北朝鮮の脅威」を理由に、平和憲法で封印してきた集団的自衛権の行使を実現させるための動きを推進してきました。だが、もし日本が先の大戦で学んだ教訓を忘れて戦争への道を辞さない体制を築いたとしたら、かつて侵略された韓国、中国はじめアジアの国々と断絶するだけでなく、国内でも徴兵制の復活で子や孫を戦場に送り出すという悪夢に直面する恐れすらあります。
 したがって、朝鮮半島での戦火を回避するため、この地域に恒久的な平和システムを確立することが急務です。それはどうしたら可能なのか。これが、南北を問わず朝鮮半島を取材してきた私にとっての「究極の宿題」です。
 とくに在韓被爆者問題から朝鮮問題に入門した私としては、核抑止力による国家間の恐怖の均衡を超えて、国民レベルに至る相互信頼の輪を構築することが核なき恒久平和をかちとる唯一の道だと考えます。したがって核問題では北朝鮮の核放棄と同時に、すべての核保有国の核廃絶を達成することが重要であり、それによって初めて朝鮮半島の非戦平和も成立すると信じます。
 こうした考えから、私はこの非武装地帯の紀行を「非戦への旅」と位置づけます。「最後の戦争記憶世代」として、国家を超えた民草の意志による「非戦=絶対平和」をめざすメッセージの発信でもあります。

 朝鮮半島にも冷戦終結の波はひた寄せ、二〇〇〇年六月の金大中大統領と金正日総書記の南北首脳会談をきっかけに朝鮮戦争で断ち切られた鉄道や道路を復旧してシベリア鉄道につなげる計画が進み、〇七年には韓国企業が進出する北朝鮮・開城工業団地へ定期列車が走り出しました。金剛山や開城への観光も一定の成果を上げています。
 二〇〇七年一〇月の盧武鉉大統領と金総書記による二回目の南北首脳会談では休戦体制の終息と多くの経済協力プロジェクトが共同宣言に盛り込まれました。〇八年二月に発足した韓国新政権も北朝鮮の核放棄と引き換えに大規模な経済支援を行うことを表明しました。
 いま軍事境界線(三八度線)は民族の分断ラインから「和解と共生の実験場」として徐々に新しい姿を見せつつあります。朝鮮のことわざに「始まりは半分」というのがあります。一歩踏み出しさえすれば、たちまちお隣の「激変半島」を体感できるでしょう。そして非武装地帯の現実を知ることを通じて、南北が対決から対話と協力の道へと転換しつつあることを確かめ、日本と朝鮮半島の平和的な共存を考える手がかりを見出してほしいのです。東西二四八キロの非武装地帯に沿ってあるくこの旅が、そのスタートとなることを願っています。



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