| 旭川・アイヌ民族の近現代史【立ち読みコーナー】 | |||||
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著者 金倉義慧(かなくら・ぎけい) 1934年、北海道雨竜郡秩父別町に生まれる。大谷大学文学部卒業。北海道立深川西高をはじめ静内、旭川工業、秩父別高校に勤務し、1995年に退職。 著書:『学園自治の旗』(明治図書)、『遙かなる屯田兵』(高文研)『画家 大月源二』(創風社) ■あとがき 近代の、旭川・近文アイヌ民族のことをどうしても書き残しておきたいと思い立ち、ようやく全体像が見えるようになるにつれて気にかかりだしたのは、アイヌ民族にとって日本の戦争、とりわけアジア・太平洋戦争とはいったい何であったのか、ということだった。そして出会ったのが、橋本進氏の著作『沖縄戦とアイヌ兵士』(草の根出版会、一九九四)だった。この本は何度か繰り返して読んだ。 沖縄戦での旭川・アイヌ民族の兵士のことが知りたくなって、『旭川市史』や資料に当たって戦没者の記録を探したが、どうしても見つからない。第七師団の北鎮記念館に問い合わせてみた。無駄だった。旭川にある北海道護国神社を訪ねた。北海道・樺太の戦没者六万五千名のリストならあるという。 手がかりを持たず探し出すのはとても無理だった。高齢の遺族会の会長さんを訪ねたが、会員にアイヌの方はおられないという。間違いなく門野信広、杉村正経、荒井国元などアイヌの戦没兵士はいたはずなのに、遺族会会員名簿にもアイヌの遺族を見つけることはできなかった。両親はもちろん妻だった方も今は亡く、遺族会を退会したのだろうか。戦争体験を語ってくれるアイヌの人もおらず、その先に進むことは難しかった。ただ橋本進氏の本から弟子屈の弟子豊治らのことを知ったのは貴重だった。 そのことを川村カネトアイヌ記念館の川村兼一さんに話したことがあって、今年(二〇〇五年)五月、沖縄の真栄平に行きますけど一緒に行きませんかと誘ってくれた。川村兼一さんが沖縄本島南部の激戦地跡に建立された慰霊碑、「南北の塔」でイチャルパ(慰霊祭)を行っていることは知っていたし、さしつかえなければぜひ同行させてほしいとお願いした。 真栄平の南北の塔の右側面には「キムンウタリ」と彫られている。アイヌ語で「山の同胞」だという。北海道は木々の緑に囲まれた土地柄であり、真栄平もよく似たなだらかな丘陵地帯であるから、同じような自然に恵まれたもの同士の連帯と平和の願いをこめて「キムンウタリ」と書いたのだろう、と川村兼一さんはいう。沖縄の梅雨は本州より一カ月早く、五月は雨期になる。当日は雨傘も役に立たないほどの雨となった。イチャルパは雨音だけが耳に入るなかで静かに行われた。鎮魂ということばがなぜか急に浮かんできて離れなかった。本当に来てよかったと誘ってくれた川村兼一さんに感謝した。 弟子豊治、沖縄戦で亡くなった浦川玉治(『沖縄戦とアイヌ兵士』)、日中戦争での荒井源次郎(伊藤桂一『月下の斥候隊』=荒井源次郎がモデル)、砂沢クラの語る日露戦争でのアイヌ兵士(『ク スクップ オルシペ』)、偶然ではなくそれらのアイヌ兵士に共通しているのは、いずれも気立てのやさしい兵士たちであることだ。軍服が似つかない人たちと言えばいいだろうか。ほんとうは、どの国の、どの民族であろうと、みんなやさしい気立ての持主であろう。生きとし生けるものならば、殺し、殺されることに涙しないものはいないはずだ。人のいのちに鈍感になったとき、鬼にも邪にもなる。アイヌ民族は、歴史的にも、戦争どころか争うことにすら顔を背ける民族だった。 昭和五十三(一九七八)年、沖縄県で開催された日教組日高教合同教育研究集会での鷲谷サトの発言である(『沖縄戦とアイヌ兵士』)。 「私たちアイヌは、幼いときから、言葉でいいあらわせないほど、ひどい差別をうけ、いじめられてきました。やっと大人になったとき、たった一枚の紙切れ(召集令状)で兵隊にとられ、たった一枚の紙切れだけがかえってきたのです」 「沖縄戦で一番多くの兵隊さんが殺された場所を教えてください。従兄の血がにじんだ土を、ひとにぎりでも持って帰りたいのです」 近代の日本は、十年おきに大きな戦争を繰り返してきた。詰まるところは泥沼の破滅に陥る日中戦争・アジア太平洋戦争であった。それらは、どう考えてもアジア諸国に向けられた加害・侵略の歴史であった。朝鮮併合を含めて道理はなく、民族の誇りを平然と傷つけてきた。日本の過去の戦争が他民族迫害の歴史であったことでは、アイヌ民族に対しても同じであった。いや、同じというより、アイヌ民族への偏見、差別、迫害に、その出発点があった。今、それらの事実を認めまいとする声が国の中枢から聞こえはじめている。どこかで国のかたちが歪んできている。二度と悲劇を繰り返すようなことをしてはならない、痛切にそのことを思う。 この四年ほど、伺ったアイヌの方々のお宅は二十軒を越えるだろう。断られたことは一度もなかった。時にはぶしつけになる質問にも、ていねいに、やんわりと答えていただいた。そのたくさんの方々は、文中に実名で書かせていただいた。何よりもアイヌ協議会の川村兼一さんご夫妻、ウタリ協会の川上哲さんご夫妻をはじめ、アイヌの方々のお世話になって、やっとここまでたどり着くことができた。 平塚賢智さんは、米寿に近い今も、誰もが認める木彫り熊の優れた実作者である。そのうえに人脈、知識、何をとっても豊富だった。しっかり近文のことを書いてくれよと、たえず激励され何でも教えてくれた。佐々木豊さんと知り合えたことも、貴重だった。貴重な資料がいっぱいあって、本当は佐々木豊さんが書くともっと内容豊かになっただろう。 私と同郷の大和正幸さん、鬼才といっていい木彫り熊の実作者であった。木の見方からはじまって、私の知識は大和さんからの受け売りだ。原稿がもう少しで出来上がるというときになって急逝された。無念だった。 五十嵐広三さん、内閣官房長官を務めたほどの方にアイヌの人たちが抱いている親近感、信頼感を実感して感動した。みんなフルネームにさん≠付けて五十嵐広三さん≠ニ呼ぶ。終章の記述から、その魅力を感じとっていただけたろうか。 最後になったが、もっともお世話になったのは旭川市中央図書館資料室のみなさんだった。ぼう大な新聞資料から始まって、古い文献を探し出すことまで、勝手な注文にも笑顔でてきぱきと応じていただいた。誠実な、本当にいい方ばかりだった。 出版に際しては、以前出版した『遙かなる屯田兵』とあわせ、また高文研にお世話になった。もう四十年をこえる付き合いの梅田正己さんがおられるからである。梅田さんの指示はいつものことながら的確だった。七十を過ぎても本を出すことができて、本当にしあわせだと思っている。 二〇〇五年十二月 金倉義慧
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