| 我愛成都【立ち読みコーナー】 | |||||
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著者 芦澤礼子(あしざわれいこ) 1963年、東京都文京区に生まれる。高校生のときから中国に興味を持ち、東京都立大学在学中は中国現代史を専攻。卒業後、情報検索会社に就職。 1994年から1995年にかけてインターンシップ・プログラムスから、中国四川省成都市の西南交通大学に派遣され、日本語を教える。 帰国後、女性雑誌の編集に約6年たずさわり、2001年5月独立。 もっかライター・エディターとしての自立をめざして、修行中。 (プロローグとエピローグを全文掲載) ■ ――プロローグ シルクロード・文化大革命・そして天安門 ――私が中国へ行ったわけ 一九九四年五月、私が中国四川省成都市にある西南交通大学に日本語教師として赴任してから、三か月がたっていた。 そのころ、Nくんという学生が、友だちと一緒によく私の部屋に遊びにきた。彼は寡黙なたちで、勉強熱心だが率先して話すほうではなかった。 ある晩、学内のダンスパーティが終わってから、Nくんはこう切り出した。 「先生は明るい性格ですね。僕は自分の性格が嫌いです」 「どうして?」 「これから、僕の性格の話をします。日本語では難しいから、中国語でいいですか?」 「いいですよ。今は授業じゃないんだから、中国語で話して」 「僕の父が二〇歳を少し過ぎたころ、文化大革命が始まって…。父は真面目で正直な人間でしたから、嘘を言うことはできません。ですから猛烈な批判と迫害にあいました。それはとてもひどいものです。 文化大革命の最中、両親は結婚して子どもが生まれましたが、父はよく僕たち子どもに当たりました。とても怖い、厳しい父でした。僕はあまり話さない子どもになりました。今は状況も変わりました。父は会社の経営者になり、とても寛大になりました。今の父は好きです。でも、自分の性格はそのままです…」 文化大革命。私は知識では知っていたが、ただそれだけだったのかもしれない。そのとき初めて、生々しい手ざわりをもった「文革」が、私の目の前に姿を現わした。 幼かったNくんは、子ども心に父のいら立ちの原因を察していたのだろう。 「私、お父さんに会いたくなった。話を聞きたい」 「その頃の話は、父はしません。苦しいですから…僕はこの話をしたのは初めてです」 Nくんの話を聞いたあと、胸が疼いた。彼は一九七五年生まれで、文化大革命を経験していないのに、その彼にも文革が暗い影を落としていたなんて。 文革の生き証人であるNくんのお父さんの話を、ぜひ聞いてみたい。でもそれは、単なる私の好奇心かもしれない。お父さんの心の中の触れられたくない部分に、土足で踏み込むようなまねは、してはいけない。 それでも私は知りたいと思った。急速に発展するこの国の人びとの、胸の底にある思いを聞いてみたかった。 私が中国に興味を持ったきっかけは、ありがちなことだったかもしれない。 一九八〇年四月、高校二年生になったとき、NHKのドキュメンタリー番組「シルクロード」第一集の第一回を見たことは今もはっきりと覚えている。 喜多郎の有名なテーマ曲に乗って、あかあかとした夕日に照らされて歩くラクダの隊列。悠久の都・長安。その風景になぜか強烈に引き付けられた。 一年間、私は欠かさずに「シルクロード」を見た。敦煌莫高窟の壁画、楼蘭のミイラ。トルファン、クチャ、ホータン、不思議な響きの地名。何もかもが神秘的だった。 隣りの国中国は、どうやらパンダと餃子の国というだけではないらしい。この場所にいつか行くことになるんだろうなぁ…と、漠然と考え始めていた。 いつか行きたい、という気持ちを抱き続けながら、私は大人になっていった。たかがテレビ番組でも、人の生き方を変えてしまうことはある。単に私が単純だったのかもしれないが…。 一浪して入った大学では、当然のように歴史学を専攻した。それも東洋史。私の大学にはシルクロードの授業はなかったので、中国古代史、中世史、朝鮮史の授業まで幅広くかじってみたが、二年生までは専門分野を決めかねていた。 三年生になって、自主ゼミ(学生が主体的に運営するもので、私の大学では一年で四単位が与えられた)で、中国の「文化大革命」をテーマにしようという意見が出て、意気投合した七人で一年間徹底的に「文革」を分析した。 二〇世紀の巨大な実験である「文革」は、一九六六年に始まり、毛沢東主席が死去した一九七六年に終わった。それは、旧体制を破壊する思想運動の衣をまとった権力闘争だった。この時期のことを調べながら、権力闘争に巻き込まれ利用されていった人びと、逆に利用してのし上がっていく人びと、抵抗し迫害される人びとの生き方に強い興味を持った。 よし、専門は中国現代史にしよう。そもそも文化大革命の前史はどうだったのか。 卒論のテーマは一九五六〜五七年、ちょうど文化大革命の一〇年前に行なわれた「百花斉放・百花争鳴」から「反右派闘争」時期の政治動向に決めた。それは、一九四九年に新中国が成立して以来、初めて知識人層が大規模な弾圧にあった、文化大革命の伏線となる時期である。 卒論のテーマを絞りこんだ四年生になる前の春休み。私は初めて中国へ行った。それは、私にとって初めての外国旅行でもあった。 一九八六年三月、アルバイトでためた貯金をはたき、友人三人と大学生協の格安ツアーに参加した。大阪港から客船「鑑真号」に乗って四八時間、上海に上陸し、北京、洛陽、西安と回った。 文化大革命が終わって一〇年。中国は一九七八年から始まった「改革・開放」路線にのっとって市場経済を取り入れていたが、当時はまだ街中に共産党の政治スローガンが目立ち、服装も紺やグレーの人民服を着ている人が多かった。当時は月給が五〇元(およそ二八〇〇円。当時のレートで一元は約五六円)の時代だった。 私は商店の服務員さんのつっけんどんさに驚き、突然水になってしまうホテルのシャワーにあわてふためきながらも、屋台で買い食いをしたり、西安の兵馬俑で値切りに挑戦したりしているうちに、この国の空気に次第になじんでいった。 旅行の中で、忘れられない光景がある。西安に新しくできたアメリカとの合資の豪華ホテル「金花飯店」を囲むフェンスに、中国の普通の人たちがびっしり張りついてホテルを見ていた。当時はこのようなホテルは外国人専用で、一般中国人は入れなかった。いわば「新しい租界」だ。 その時私は思った。この人たちがこのホテルに入れるようになるには、いったい何年かかるのだろうか…。 卒論を提出する直前の一九八六年一二月、中国で民主化を求める大学生たちの動きが活発になった。私は心密かに彼らのことを応援していた。 ところが、大学生の動きは政府によって鎮圧され、彼らが支持していた胡耀邦総書記は解任された。民主化運動の挫折、このことがやがて、一九八九年の天安門事件の伏線となるのだった。 一九八九年、二度めの中国行きのチャンスが訪れた。 そのころ、小さい情報検索会社の社員になっていた二六歳の私は、趣味として中国語の勉強を続けていた。学校にも通っていたが、あくまでも趣味の域を出ない程度だった。 この年のゴールデンウィークに、北京にある清華大学で行なわれる九日間の中国語研修に参加しようと思い立ち、申し込んだのは三月。その時は、この年の六月に天安門事件が起こるとは、予測もできなかった。 四月に入って胡耀邦元総書記の死去がきっかけで学生による民主化要求の動きがにわかに活発化し、四月二一日には胡氏を追悼する学生や市民たちで天安門広場が埋め尽くされた。私が行く予定の清華大学は中国きっての名門大学だが、今回の学生運動の推進役を果たしており、四月二四日に無期限ストに突入したという。この状況で中国語研修は本当に行なわれるのだろうか…。不安を覚えながらも、もしかしたら北京の民主化運動の現場を見られるかもしれないという期待感を、私は押さえ切れなかった。 四月二九日に北京に到着。清華大学では、留学生と短期語学研修の授業は平常通り行なうということだったが、中国人学生は授業ボイコットの真っ最中だった。学内は一見平穏な雰囲気だったが、一か所にビラや壁新聞がまとめて貼ってあったので読んでみた。授業ボイコットの呼びかけ、官僚の腐敗批判、マスコミの公正な報道を訴える要請書などに混じって「我々は死を恐れない!」などという勇ましいビラもあった。その前で、学生が胡氏追悼集会の写真を売っていて、黒山の人だかりがしていた。 北京の地方新聞「北京日報」によれば、五月四日は「五・四運動」の記念行事が天安門広場で行なわれるため、大規模な交通規制がしかれるとのことだ。一九一九年に起こった愛国的民衆運動からちょうど七〇年、その日に合わせて学生運動も山場を迎えるとの情報を聞きつけた。 一九八九年五月四日は、まるで真夏のように太陽が照りつける暑い日だった。 午後、私は短期研修生が天壇公園に行くのに参加せず、一人で天安門広場に向かった。地下鉄に乗って天安門広場の最寄りの駅「前門」で降りようとしたが、通過してしまった。交通規制が厳しくて降りられないのだろうか。 次の駅「崇文門」で降りて、歩いて天安門まで行くことにした。三〇分ほど歩くと、人通りがだんだん多くなってきた。旗を持って歩いてくる集団がいる。デモだ…! 天安門広場には大勢の学生が集まっていた。列を組み、手にスローガンを書いた旗を持って、次々に広場から行進して出ていく。私は思いきって広場の冊を乗り越えて中に入った。三日前のメーデーのときは鎖で囲んであった人民英雄記念碑の上は、人が鈴なりになっていた。私はその上によじ登って写真を撮った。 北京大学、清華大学、北京外国語大学、工芸大学…それぞれの大学の旗を持って、口々に自由、民主、自治などのシュプレヒコールを叫びながら、学生たちは人びとの作った花道の間を行進していく。新たな大学が通るたびに割れるような拍手。暴力的な雰囲気はなくて、むしろ統制がとれているように感じた。 ただ、あちこちに割れたガラス瓶が散乱していた。これは中国の最高指導者、搶ャ平氏の「平」と「瓶」が同じ音であることから、搦≠ヨの抗議の気持ちを現わしたものだという。 私は人民英雄記念碑から下りて、デモ隊に近づいて読めそうなスローガンをメモした。「真成平等対話」「新聞要平等報道」などに混じって「我們一小撮??」というスローガンがあった。この「撮」という字がよく読めなかったので、私は隣りにいた男子学生に「この字は何ですか? 書いてください」と中国語で聞いてみた。彼は親切に説明をまじえながら書いてくれた。「日本人か?」ときかれたので「私は清華大学に来ている短期留学生です」と答えたら、彼は非常に喜んで、猛烈な勢いで話し始めた。私の中国語力ではとうていついていけない。切れ切れに報道への不満や、李鵬首相への批判などが聞き取れた。 いつのまにか人垣に取り囲まれ、彼の話はますます熱を帯びる。「彼女はだれだ?」という声に「日本朋友」と彼は答える。「いつ来たんだ?」「中国語はどこで勉強したの?」と私に質問する人、「一緒にデモに参加しよう!」と誘う人。 暑さと人びとの熱気と早口の中国語のなかで途方にくれた私は、知っている中国語の単語をかきあつめて、こう言った。「日本人は中国の事情を知らないので、帰国したら必ず今日の話をしましょう…」。拍手、そして歓声。 人垣からやっとのことで抜け出して、時計を見たら、広場に来て二時間が過ぎていた。 改めて学生さんが書いてくれたメモを読むと、中国語でこう書いてあった。 「五月四日、二〇万人の人民が天安門広場にて民主を勝ち取るデモを行なったが、それによって人民の力量が必ず当局を震撼させるに十分であることがわかるだろう。政府が人民の気持ちを諒解することを望む。二〇万人の人民は決して当局の言う『一小撮(ひとつまみ)』ではない」 五月一三日、天安門広場で学生たち三〇〇〇人のハンストが始まった。一五日、ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中し、中ソの歴史的和解が成立した。 二〇日、北京に戒厳令。三〇日、天安門広場には「民主の女神像」が建った。そして、学生たちに理解を示した趙紫陽総書記が失脚した。悲劇は刻々と近づいていた。 六月三日の深夜から四日の明け方まで、私はずっとテレビを見ていた。「人民の軍隊」であるはずの人民解放軍が天安門広場に侵入し、発砲し、戦車のキャタピラが学生たちのテントを押しつぶしている。信じられなかった。あの中に、私にメモを書いてくれた学生さんがいるかもしれないのに…涙があふれて、いつまでも止まらなかった。 中国には中国の事情があるだろう。あんな巨大な国で一気に民主化をしようとしても、できっこないのだから。学生たちも性急だったかもしれない。でも、だからといって政府が武力を持ち出すなんて。悲しくて悔しくて、やり場のない気持ちだった。 その時私は思った。もう一度必ず中国に行こう。あの広場にいた人たちと会えるとは思えないけど、それはしなければならないことなんだ…。 一九九〇年秋、私は以前から交際していた会社の同僚と結婚した。結婚したからといって中国への関心が薄れたわけではなく、子どもがいない共働き生活のかたわら、中国語の学校通いも続けていた。とはいえ、長期で中国に行く機会があるとは考えてもみなかった。 一方、中国は天安門事件以降、諸外国の制裁を受けて経済は停滞した。この状態を打開するために、一九九二年初頭、搶ャ平氏が中国南方を巡って「改革・開放政策」の徹底を訴えて歩いた。この「南巡講話」以来、経済は積極路線に転換し、中国は高度成長時代を迎えようとしていた。 その一九九二年春、私は中国語学校の壁に一枚のチラシが貼ってあるのに気づいた。 「中国で日本語を教えてみませんか?」 民間国際交流団体「インターンシップ・プログラムス」の海外研修の募集だった。 ――中国で日本語を学ぶ学生って、どういう考えを持っているんだろう? ふっと、心が動いた。試験、受けてみようかな…。ダメでもともと、夫にも相談せずに受けてみたら、なんと合格してしまった。合格すれば行きたくなる。夫に言ってみた。 「中国に行きたいんだけど。日本語の先生として」 それは相談ではなく「行きます」という宣言だったのかもしれない。夫がその時どう答えたのか、申し訳ないけど覚えていない。私はもう走り始めていた。日本語の先生になる勉強を始めなきゃ。インターンシップの夜間日本語教師養成講座に早速申し込み、一九九三年四月から通い始めた。七月いっぱいで会社も辞めてしまった。 インターンシップからは、中国の大学からの打診がいくつか来た。西安の西北大学、江西省南昌の南昌大学。ところが、それらの話は大学側の都合で次々に立ち消えになった。秋には中国に行けると思っていた私は焦った。会社も辞めちゃったし、このまま宙ぶらりんなんて、どうすればいいの? 一九九三年の年末になって、新しい話が来た。四川省成都市の西南交通大学だそうだ。四川省かぁ…行ったことはないし、予備知識も少ない。パンダのふるさとで、麻婆豆腐発祥の地であること、搶ャ平の故郷であること、三国志の蜀の国であったことくらい。 ほどなく、西南交通大学日本語科主任の劉先生から手紙が届いた。上手な日本語で、西南交通大学の説明が書いてあった。なになに、日本語科はできたばかりで一期生だけなのか。これはおもしろそう! やりがいがあるかも…。 よし、決めた。成都に行こう。中国国家専家局からの正式な招聘状も届いた。もう、あとにはひけなかった。派遣期間は一九九四年二月末から一年間の予定。 天安門事件から、そろそろ五年。私は三〇歳になっていた。
■――エピローグ 「国と国」よりも「人と人」として 一九九五年七月。ついにシルクロードにやってきた。一七歳のときから、いつかは来たいと思っていた場所に、一五年後に立っている。 敦煌莫高窟の鮮やかな仏教壁画、鳴沙山のどこまでも続くベージュの砂山。 敦煌からトルファンへは冷房もなく、座席もない汽車で一五時間。さらにウルムチへ行き、バスで沙漠を四八時間走って、パキスタンに近いカシュガルにたどりついた。 カシュガルはウイグル人の街。巨大なイスラムのモスク、エイティガール寺院のまわりは大バザールで、ウイグル人の男性がかぶる小さい帽子、女性がかぶるスカーフ、楽器や絨毯の店が軒を連ねる。壷のなかでぐるぐる回すアイスクリーム、ヨーグルトをかけたかき氷、われ先に手を出すウイグル人のかわいい子どもたち。 ハミ瓜やぶどうを食べながら、ここも今は中国の一部なんだよね、と考えていた。ウイグル系住民の独立運動があるということは知っていたけれど…。 道連れの短大卒業生、呂雨樵さんは「外国みたいですね!」と、素直に喜んだ。 七月末に成都に戻り、今度は中国東北地方へと向かった。東北地方は旧満州。大連、瀋陽、撫順、ハルピン…日本軍の侵略の爪痕が行く先々に残っている。 撫順にある三〇〇〇人の村人が日本軍に虐殺された平頂山の殉難同胞遺骨館。累々たる遺骨の一つ、子どもを抱いている母親の頭蓋骨の後頭部に、かろうじてくっついている丸い髪の毛の束。彼女の面影が目の前に浮かんでくるようで、思わず目を閉じた。 一九九五年八月一五日、日本の敗戦から五〇年。この日、ハルピン近郊に七三一部隊の新陳列館がオープンした。旧資料館は実際に七三一部隊の本部として使われていた建物で、その一部にまだ展示が残されていた。薄暗くひんやりした建物の中に、ガラス瓶に入った人体組織の標本がある。人体実験の記録データもそのまま。ここで殺されていった人たちの命の記録なんだ…背筋にすっと冷たいものが走った。 私、ここに日本人として来てるんだ。日本人って見られたくない。シルクロードでの浮き浮きした気持ちはどこかに消えていた。 二〇〇一年夏、日本にはナショナリズムの空気がたちこめていた。 「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校教科書。小泉首相の靖国神社参拝問題。 私は旧満州で見てきたものを思い出した。こんな日本に「ぜひ来て下さい」と私は学生に言ったんだもの。 八月一三日、小泉首相は靖国神社に行って、さっと参拝して引き揚げた。「内閣総理大臣」として。八月一五日でなければ、それでいいんだろうか。 ところが、中国の反応は、強烈な憤慨を表明しながらも慎重だった。中国政府の申し入れ書の中には「八月一五日という敏感な日の参拝計画を放棄し、談話を発表して、侵略の歴史を認め、反省したことに留意する。ただ、参拝という実際の行動と談話の精神は矛盾する」という見解が示された。 中国は本当は日本とはコトを構えたくないのだ。政治は政治、経済面での緊密な関係を阻害されては困る。中国はWTO(世界貿易機関)への加盟が確実だし、日本との関係はますます重要になる。これが中国の本音だと感じた。それは、六月の成都訪問でも感じたことだった。 最近、日本で、中国に対する仮想敵国視は強くなっているようだ。その上、最近は中国人による日本での犯罪報道が目立っている。中国人による窃盗、不法入国、不法就労などがあるのは事実だ。日本にいる中国人の大部分は、合法的に真面目に生活しているはずなのに、そういう報道が中国人全体への偏見をあおってしまう。 その偏見に「中国は貧しい」という差別的な感情が含まれてはいないだろうか。確かにGDPや賃金格差、貨幣価値などをみると日本の経済のほうがまだまだ豊かであることは間違いない。靖国問題や教科書問題の底には「日本は先進国、中国は発展途上国」という日本人の奢りを感じる。その意識は、戦前から続いていた蔑視の延長線上にあるものだ。 でも、改革・開放政策に乗る中国は、いつか経済面でも日本を追い越す日が来るような気がしてならない。元気を失っている日本人に比べ、中国人はやたら元気だ。成都で普通の中国人の生活を見ても、かえって日本よりも豊かに感じる部分も多々あった。 日本の産業は、工業も農業も、人件費が安い中国に相当頼っている。しかし、中国の人件費は今、どんどん上がっている。中国の人件費の安さに頼っている日本の産業構造は、そんなに遠くない将来、もたなくなるのではないか。 「米中が衝突しなければ、中国は五〇年後には確実に日本の五倍、一〇倍の巨大な経済力を持つようになっている」――シンガポールのリー・クアンユー上級相が二〇〇一年八月に予言した。これが本当になったとき、もしかしたら日本人の窃盗団が中国で暗躍するようになるかもしれない。いや、そんなことは起こらないにしろ、日本が名実共に「先進国」でなくなったとき、中国とのつきあい方は変わらざるを得なくなるのだろう。 二〇〇八年には北京でオリンピックが開かれる。その時に向けて、中国は数々の問題を抱えながらも、また一段と速度を上げて走り続けるだろう。 私も中国のすべてが好きなわけではない。特に人権問題は深刻だと思う。中でも一人っ子政策が中国にもたらした問題の大きさには、ため息が出る。 西南交通大学に、サンドラさんというニュージーランド人の五〇代の留学生がいた。ある日、彼女が中国人の赤ちゃんを抱いていたので、不思議に思ってたずねてみたら、「宿舎の前に捨てられていたから、拾って育てることにしたのよ」と言う。 グローリー(栄光)と名付けられたその女の子は、サンドラさんが三か月育てたあと、カナダ人夫婦にもらわれていった。一人っ子政策の中で生まれた戸籍のない子ども(黒孩子)を、外国の夫婦と養子縁組をする商売もあると知ったのは、そのあとだった。 成都朝日(日本)文化学校のラコシ先生も、成都の孤児院でボランティアをした経験を話した。「本当に孤児は多いんですよ。特に障害者、ほとんど捨て子です」…一人しか子どもが生めない国で、毛沢東時代の「産めよ増やせよ」のツケは、捨てられる最も弱い子どもたちに回っているのだ。 その一方、中国の人民解放軍も今や一人っ子ばかり。兵士の親の本音は、戦争は絶対にしてほしくないということだ。一人っ子政策のおかげで、中国は戦争をしない国家になりつつあるのかもしれない。 むき出しのナショナリズムは、人間自身を見えなくさせる。相手も人間だという基本的なことよりも、「日本って…」「中国って…」という、乱暴な見方しかできなくなってしまう。 私は中国にいたとき、いろんな問題について「日本人はどう思うか」と聞かれることがあった。日本人は…と言われても、私は日本人の代表じゃない。私個人の意見としてしか話はできない。私の教え子たちも、日本に来てから「中国人って、どうして…」という聞き方をされたことがしばしばあったという。「中国人って言ったって、いろいろです」としか、答えようがない。だって、一三億人のうちの一人なんだから。 私たちは確かに日本人であり、中国人だけど、その前に「個人」なんだ。国と国ではなく、人と人として、私は成都で出会った人たちとつきあってきた。 そして、これからもつきあっていきたい。 この本は私の個人的な記録です。私が知っている中国は、大きな中国の、ほんの一部であることは確かです。でも、この小さな記録から、今の中国の普通の人びと、特に若い人たちの考え方を感じていただければ幸いです。そして、日本の若い人たちに、読んでいただけたら嬉しいなぁと思います。 書き終わって改めて読んでみると、何だか私、かなり立派な先生に書けちゃったなぁ…と、妙に落ち着かないような気持ちになります。本当はしょっちゅう壁にぶち当たり、スランプに苦しみ、失敗(悪事?)ばかり重ねていたのに。でも、そんな小心者でド素人の私の授業を、教え子のみんなは今でも「先生の授業はおもしろかった!」と言ってくれます。彼らがいなければ、この記録は書けなかったでしょう。 私の企画に喜んで協力したり、おもしろがりながら応援してくださった皆さん、支えてくれた私の家族、中国で出会った人々と西南交通大学の先生方、教え子の一人ひとり、楽しいイラストを描いてくれた、いちだまりさん、そして初めての本を出版してくださった高文研の皆さん、とくに担当してくれた山本邦彦さん――たくさんの人に支えられてこの本はできあがりました。 謝謝大家(ありがとう、みなさん)! 二〇〇一年一〇月一日(国慶節 中国の建国記念日) 芦澤礼子
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