サイバーコウブンケン
カバー写真
観光コースでない フィリピン

大野 俊著 1,900円
B6判・319ページ 1997年11月発行
ISBN4-87498-198-4 C0036

キリシタン大名・高山右近のルソン渡航以来、日本と深い関わりをもつフィリピン。その歴史と現在を、すべて現場を訪ねつつ、この国を愛してやまぬベテラン記者が案内する!
フィリピンを旅するならこの1冊

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著者:大野 俊(おおの・しゅん)
1953年、徳島市生まれ。九州大学理学部卒。国立フィリピン大学アジアセンターで修士号取得。毎日新聞社入社後、長野支局、大阪本社社会部、東京本社社会部、外信部を経て、90年12月から95年9月までマニラ特派員。この間、東南アジア・オセアニアの計15カ国で取材活動にあたる。94年から1年間、フィリピン外国人特派員協会会長。現在、毎日新聞大阪本社経済部副部長兼外信部記者。著書に「ハポン──フィリピン日系人の長い戦後」(第三書館)、「赤い川」(同)、「動物たちはいま」(小島正美氏との共著、日本評論社)など、英語論文に「JAPANESE FILIPINOS IN DAVAO:A PRELIMINARY STUDY OF AN ETHNIC MINORITY」(ASIAN CENTER,UNIVERSITY OF THE PHILIPPINES)がある。

もくじ

はじめに

T.マニラ
  • ニノイ・アキノ国際空港
  • マカティとエドサ通り
  • リサール公園
  • エルミタ
  • スモーキー・マウンテン
  • パヤタス
  • パコ
  • コレヒドール島
  • モンテンルパ

U.中部ルソン
  • リパ
  • バタアン半島
  • ピナツボ火山周辺
  • アンヘレス
  • オロンガポ
  • アシエンダ・ルイシタ

V.北部ルソン
W.ビサヤ
  • レイテ島
  • セブ・マクタン島
  • ネグロス島
  • パナイ島

X.パラワン
  • パラワン島
  • カラミアン諸島
  • スプラトリー諸島

Y.ミンダナオ
  • ダバオ
  • ホロ島

──はじめに

 フィリピンといえば、読者の方はどんなイメージを思い浮かべるだろう。

 この十年以上にわたって留学生や新聞社特派員としてこの国と関わりをもち、ルソン島北端からスルー諸島まで全国各地を歩いた私の、フィリピンに対して抱く印象は悪くない。同質的で超管理社会の日本とは対極に位置するような、開放的でおおらか、過ちにも寛容な優しい世界がフィリピンにはある。七干万人近い人口のうち、カトリック教徒が約八三%を占めるが、プロテスタント教徒も五%余り、イスラム教徒もミンダナオ島、スルー諸島など南部を中心に人口の四%余りいる。国民の大多数のキリスト教徒も、地域によってタガログ語、セブアノ語、イロカノ語など異なる言語をしやべっている。

 こうした「ローランド・クリスチャン(平地キリスト教徒)」は別に、約二万年前に大陸から渡来したとみられるネグリト系アエタ族、そのあとに渡来し、いまは山岳地帯で暮らすイフガオ族をはじめとする、「カルチュラル・コミュニティー」と呼ばれる多数の少数民族が各島にいる。山岳民族の間では、アニミズム(精霊崇拝)が高齢者を中心にいまも根強い。およそ七干百の島々から成るこの国に、言語は百十はあるといわれている。

 カトリックは、三百三十三年間、フィリピンを植民地支配したスペインの「遣産」だが、太平洋戦争まで四十二年間、植民支配し、戦後のフィリピン独立後も政治・経済的に大きな影響力をもった米国の文化も色濃く残っている。国語はタガログ語をベースとするフィリピーノ語だが、米国統治以来の英語教育の普及で、国民の大半が英語もしゃべる。

 古くは、イスラム諸国の宗教や中国の文化の影響を受けていた。近世になってから、他のアジア諸国同様、欧米列強の植民支配を受けたわけだが、スペインの植民支配を受けるまでは親族集団を基本とするバランガイ(集落)しか存在せず、「フィリピン」という国名自体、当時のスペイン皇子フェリペニ世に由来している。この国の国家統合の難しさは、民族や言語がまだら模様の多島海にスペインが一方的に国境線を引いたことに起因する。

 強力な政治権力が確立されないうちに欧米の植民地となり、またその支配期間が長かったフィリピンは、他のアジア諸国に増して、外国の文化が国民生活に浸透している。このため、フィリピンの文化を「損なわれた文化」と形容する米国の知識人もいるぐらいだ。 その距離的近さから、日本との関わりも深い。十六世紀の朱印船貿易などを通じて、マニラには早くから定住する日本人がいたし、キリシタン大名の高山右近のように、日本を追放され、フィリピンに温かく迎え入れられたカトリック教徒の一群もいた。

 二十世紀初めには、日本各地から多数の労働者が渡ってルソン島でのベンゲット道路建設に従事し、その後もミンダナオ島ダバオを中心にマニラ麻栽培などの農業労働者の入植が相次いだ。さらに、第二次大戦中は約三年間にわたって日本が軍事占領した。

 近年、日比関係は政府開発援助(ODA)供与や貿易・投資を通じて再び緊密になった。さらにフィリピン女性の日本への出稼ぎが活発化して、「じゃぱゆきさん」の主役となり、九〇年代になってからは日本人男性とフィリピン女性の国際結婚が激増した。それに伴って、日本文化も浸透しつつある。カラオケクラブは全国に広がり、日本の流行歌のフィリビーノ語版が大ヒット。テンプラは、フィリピン人の好物のひとつである。

 アラブ、中国、スペイン、米国、日本と、外来の文化と人間を次々受け入れてきたフィリピンでは、マレー文化を基調とする土着の文化が外来のものとまじりあい、独自の進化を遂げている。それは「損なわれた文化」というより「フィリピン文化」と呼んだ方がいい。

 フィリピンの代表的デザートにハロハロがある。豆、果物、ナタデココ(ヤシのジュースで培養する菌糸類のシロップ煮)、ウベ(紫色のイモ)のアイスクリームの上にカキ氷をのせ、濃縮ミルクをかけたものだ。ハロハロは「ごちゃやまぜ」という意味だ。フィリピンにはまた、町のいたる所にサリサリストアという雑貨店がある。サリサリは「多種多様」を意味する。フィリピン文化はハロハロであり、サリサリである。

 この「ハロハロ、サリサリの国」を、北から南まで歩き、日本とかかわりのあるスポットを中心に、歴史的背景を踏まえながらレポートしたのが本書である。



コレヒドール島
◆日米決戦の地


 フィリピンは、太平洋戦争中、アジアで最も激しい日米間の戦闘が繰り広げられた地である。その歴史を簡単に振り返っておこう。

 太平洋戦争は一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本軍によるマレー半島への上陸とハワイの真珠湾攻撃で始まる。米国が植民支配し、巨大な軍事基地を置くフィリピンは、日本軍の攻撃の対象になった。真珠湾攻撃の十時間後には日本軍の編隊がルソン島中部のクラーク、イバの本空軍基地の上空に達し、米戦闘機などを爆撃した。日本軍は同月二十二日にルソン島北西部のリンガエン湾から上陸。翌年一月二日には首都マニラに入城し、翌日、日本軍政を宣布した。

 フィリピンは四三年十月十四日、ホセ・ラウレル(アキノ政権時代の副大統領、サルバドル・ラウレルの父親)を大統領、ベニグノ・アキノ・シニア(暗殺されたベニグノ・アキノ・ジュニアの父親)を国会議長とする「フィリピン共和国」(第二共和制)の独立を宣言。しかし、実際には日本支配下のかいらい政権だった。

 マニラは、日本軍の入城から三年後の四五年二月三日、レイテ島から再上陸した米軍によって奪回される。つまり、フィリピンは都合二回、日米決戦の舞台となった。戦略上、重要な位置にあるフィリピンは日米の争奪の土地となったが、そのために日本が払った犠牲は極めて大きかった。戦争中、この国で亡くなった日本人は軍民含わせて約五十一万八干人。この数は、中国(旧満州を除く)での邦人死者数を上回り、海外で最も多数の犠牲者を生んだ。(後略)



バレテ峠
◆ダルトン峠──日本軍と米比軍死闘の跡


 見渡す限りの山並み。だが、そこには大木は見あたらず、緑が薄い。各所で地滑りが起き、赤茶けた地肌がむき出しになっている。その下の道路では落下した土砂を排除のシャベルカーやダンプカーがせわしなく行き来している。

 マニラから国道5号線を北に約二百キロ走り、たどり着いたバレテ峠。ヌエバ・エシハ州とヌエバ・ビスカヤ州の境にあり、太平洋戦争中に日本軍に殺されたアメリカ准将の名面をとって「ダルトン峠」とも呼ばれる。

 この峠から北方がカガヤン渓谷地方の「リージョン2」で、峠の上には「REGI○N2」の文字を掲げる塔がそびえたつ。その前には、第二次大戦中にバレテ・パス(バレテ峠)で起きた出来事を記した碑がたっている。
「必死の戦いを勝つために命を犠牲にした第二十五師団の兵士たちに敬意を表してたてられた。この峠を奪取するため、七干四百一二人のジャップが殺され、二千三百六十五人の二十五師団員が殺されるか、負傷した」

 碑は、太平洋戦争末期の一九四五年五月十三日に建立されたものだ。二十五師団は、ルソン島北西部リンガエン湾から再上陸し、山間地に逃げ込んだ日本軍の掃討にあたった米軍の師団である。碑の中で、日本人が「ジャップ」と蔑称で記されているのは、当時のアメリカ人やフィリピン人の強い反日感情を反映しているのだろう。(後略)

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